悟る Vol.2
昨日は御霊祭、お勇様でした~~~(*^_^*)
御霊祭で、多くの方々が集まられる今の田鶴を、今の信者用木方々を、今の状況を・・・・・『今現在』の全てに・・・私は本当に素晴らしいなぁ。凄いなあ。と感じています。
果たして、それをちゃんと繋いでいけるのだろうか・・・・・。
私自身の役目は果たすことが出来るのだろうか・・・・・。
そんな事を思いながら、前にある事を、しっかりつとめきれるよう顔晴るしかないと心新たにしております。
そして、やはり初代はじめこの道へ導かれた事を、一人一人が振り返り、なんで自分が今ここに存在するのか・・・を各自で思案させて頂かないといけないなと。。。
御霊を前に、御霊に力を借りながら、その使命を果たすことが出来る事を自分の心におさめて、また一日がスタートしています。
今日は朝から家の用事をしながら・・・
『人助けたら、我が身助かる』
という言葉を思案しておりました。
この言葉は、このお道を知る方は、一度は聞いたことのあるお言葉かと思います。
でも、私は、このお言葉があまり好きではないというか・・・なんでこんな誤解を産むような言葉を仰られたのかな?・・・と個人的に想っておりました。
そして案の定、このお道をあまりご存知の無い方などから、『じゃあ、我が身が助かるために、人を助けるのか?』という疑問を投げかけられます。
これは、結果論であると私は思います。
これには順序があって、、、
ひたすら人のために、人の助かりを想って、人をたすける行為や祈り願いをする⇒その結果、知らぬ間に、我が身や我が家族、我が末代・・・・・が助かっていた。
という事です。
私は身近な天理教信者用木さんで、『我が身が助かりたいから、人の助かりを願ったり、おさづけやおつとめをしている。』 といった方を一人も知りません。
『自分』よりも『人さん』を。という想いの方々ばかりです。そんな環境で育たせて頂いているので、いつの間にかそれが当たり前で、そういう疑問さえ浮かばなかったのが正直なところです。
一般の意見を聞くと、そういう理にそぐわない解釈の仕方にも気づかされ、勉強になります。
『欲のないものなけれども、神の前には欲はない。』
『欲があるならやめてくれ、神の受け取りでけんから』
とみかぐらで教えて下さっておりますように、『我が身の助かり』(つまり欲の一つと捉えて)があると、神の受け取りは出来ないと仰っておられます事からも、『人助けたら、我が身助かる』の思案の仕方が分かるでしょう。
そして、もっと深く思案させて頂きましょう。
愛・慈悲・・・利他主義と言える教えは、(すみません。ちょっと忘れましたが・・・800年代?また調べて書き直しますね。)にイエスキリストや釈迦などが、世界に現れ始めて、解き始めます。それまでは世界は利己主義だったようです。(ある仏教系の大学の講師に聞いた事ですが)
利他主義とは・・・自分を犠牲にしても他人の利益を図る態度・考え方。愛他主義。 ⇔ 利己主義 ・・・他人の福祉の増進を道徳の基礎とする主義。
これらの考え方は、親神様によって教えられた10のうち9の教えの一つでもあり、とてもとても大切で高尚な人間としてあるべき姿だと思います。
で、ここから一歩進んで教えて頂いたのが『互い立合い助け合い』という事だと、私は想っております。
一方向的な無償の愛の形から、今度は、『お互い』のつまり双方向的な『愛』の形を、教えて頂いたのです。。。
以前にも当ブログで書いたことがあったのですが、数年前の脳科学最新情報で『人間の脳が一番活性化する(喜ぶ)時は・・・』⇒『人間双方が喜びを感じた時』 だったそうです。 これは、一方的ではなく『相手も自分も』という部分がポイントです。
つまり、最新脳科学の結果と170年前に教えて頂いたお道の『互い立合い助け合い』という教えがリンクしたという事です。
無い人間、無い世界を創られた親神様のお言葉にくるいがあることは無いので、当然の事なのですが。。。
もちろん、『無償の愛』『与える愛』・・・天理教的に言うと『底なしの親切』『喜ばさずには帰されん』などという心使いは大前提なのですが、
相手の本当の助かりを考えた時、与えるだけではなく、実はその時に『お互いが喜び合える』事が本当は必要なのではないかと思うのです。
それが、お互いに実感出来た時、一方向に生じた感覚とは異なる、独特の感覚を感じ、それが双方向性での喜びだった事に気がつくでしょう。。。
それが、つまり・・・『互い立合い助け合い』 『人助けたら、我が身助かる』 という教えなのだと想います。
かなり複雑な内容でしたが、読解して頂けたでしょうか・・・
☆み☆
by tazuru-kyokai | 2014-02-21 12:15 | 求道・教理 | Comments(31)
欲のかたまりである人間が教祖に触発されて真実心にめざめ、生命より大事なものと思っていた財産を人たすけの上に捧げ、身を貧において、それを教祖のひながたを辿ることとして喜ぶのが、本当の姿ではないでしょうか。
しかし実際これはかなり難しいことであって、おふでさきの冒頭(よろずよ八首・九下り目など)「むねのわかりたものはない」と指摘をされています。また、むねがわからんざんねんなとも仰ってます。この「むね」を親神の思召しと思わせて頂くと、このお歌は何をさしてのお言葉と思案せねばなりません。立教以来はもとより立教以前にもこれは当てはまると思います。信仰心の無い人は当然かもしれませんが、すでに信仰している人にも親神の目からすれば「むねのわかりたものはない」ということになります。
こういう事からすると完全な意味でのよふぼくたりえる人ははなはだ少ないのではないでしょうか?
よふぼくになったからといって、それは信仰の通過点でありすべてが分かった者ではないと言えると思います。
ようぼくが親神のよふぼくである以上、その資格は親神から与えられるものであって人為によらないものではないでしょうか。人間思案ではないのです。
すなわち、よふぼくは親神によって見出され、見分けられ、引き寄せられ、かつ鍛えられるものなのです。
大切な事は人為的によふぼくになるのではなく、あくまで親神の目にかなう事が第一条件ではないかとおもいます。
特殊な修行という筋道によらないで、日々の生活の中に心を真実にしていく事が、私たちに与えられた信仰の足取りだと思います。
その信仰の足取りを真実に進めていく方法はいろいろあると思うのですが、根本は、何事によらず、親神の思召しを中心にして事を進めていく事が大切だと思います。
私はこう思うと言う事ではないと思います。親神の思召しに対する考えを中心に物事を進めるのが、真のよふぼくだと思います。
けれどもそれは、ほんとうに神様のために働かして貰っていつとは思われません。
ほんとうに神様のために働くには神様に使ってもらわなければならないと思います。神様の人足として使われ、神様の御心のままに仕事をしてこそ、神様の御用がさして貰えたと思います。
神様の御用に使って頂くには、かたい心を持っていては、取り返しがつきません。
かたい心とは自分があーもしたいという心で、世の中で人がよく言う「私はこう思います」とか「目的はここに在るのです」とか言う主義主張が目的であって、この心があっては、刃を懐に入れて抱かれに行くのと同じことだと思います。この心があれば神様は使って頂けません。
自分というものをすっかりなくしてかからなければ、神様の御用に起ってるとはいえないと思います。
どんな使い方をされても、黙って使われているのが柔らかい心だと思います。それが一番良い道具(よふぼく)だと思います。
そうして、神様の使いよい道具となれば、御守護は自由用になるのではないですか。
人間の心が自由用になるということは、人間心で勝手に何でもするということではありません。
柔らかい心・優しい心と言う事です。が優しい心を勘違いしてはなりません。
みかぐらうたに「むごいこゝろをうちわすれ やさしきこゝろになりてこい」とも「むごいことばをだしたるも はやくたすけをいそぐから」と仰ってます。
心はやさしく、相手を思った言葉がむごい言葉であったとしても、子供可愛いゆえの言葉と思案さえて頂く次第でございます。
「そんなことをされては私の立場がない」とか「顔が立たない」というような、事は自分の心を捨てたとは言えないと思います。
対価を求めない心遣いが大切だと思います。
文面から同じ方からのコメントかな?と思わせて頂きます。
時間を割いて、深く思案をして頂き、ありがとうございます!!
教祖のお言葉に何回も出てくる言葉が、『思案してくれ』『談じ合い、練り合いをしてくれ』という言葉だったと、私の中では深く心に刻み込まれておりまして、、、
しっかり思案をさせて頂く事、そして、真摯に談じ合いや練り合いをする事を親神様・教祖はお望みなのではないかな?
と思っています。
また、『私は思います』と言う言葉を使ってしまいましたが・・・(^_^;)お許し下さいね。
なので、ブログを通して練り合いが出来る事も、新たな分野としてチャレンジするのもありかな?と思っておりまして、
批判や中傷ではなく、真摯に自分の考えや想いを表出するという事は例えブログ上でも何かに繋がるかな?と考えており、コメントはウエルカムで御座います♪♪♪
少し分かり易く、ポイントを絞ってみました。
よふぼくとして神様の御用をするには、、、
『親神様の思召』『神様の御心のままに』
◎身を貧において、それを教祖のひながたを辿ることとして喜ぶのが、本当の姿。
◎日々の生活の中に心を真実にしていく事が、私たちに与えられた信仰の足取り。
◎自分というものをすっかりなくしてかかる。
◎対価を求めない心遣いが大切だと思います。
という事ですね。
本当に素晴らしい受け取り方であると思います。
やはり親神様に使って頂くには、『日々の行い、心使い』これが大事になってきますよね。
しかし、人間にとって、そうそう簡単なものでは無いですね。。。
分かっていても、なかなか出来ない。
特に『自分というものをすっかりなくしてかかる』なんて事は、かなりの域に入らないと出来ない気がしますね。
ところで、親神様の『思召』『御心』はどうやって知りますか?
私の場合は、『みかぐらうた』『おふでさき』『おさしづ』の三原典に尽きるかな、と思っています。
『教祖傳』『逸話篇』『教典』ももちろん、特におやさまのひながたを辿る場面や歴史的背景などを知るには良いのですが、『親神様の御心や思召』を知りたい際は三原典と思います。
そして、自分自身が読み取る『神意』は、皆さんはどのように読み取り、行動していらっしゃいますか?
私の場合は、①成ってきた事が神意であると素直に受け入れる。②直面している出来事を神意を思案しながら一つ一つクリアしていく。③自分の癖性分、先祖や親兄弟姉妹、家族、の性分を紐解き、その中から、自分の因縁について思案する。
そうして日々通らせて頂いている中に、点だった物が、繋がり、線になり・・・そういう事だったのか・・・と思いつつ、また未来にも広がってくる・・・
それを十全の御守護に置き換えての思案の方法もありますし、「おふでさき」「みかぐらうた」を通して思案するのも方法だと思います。では「おさしづ」はどうかと言いますと、大きく分けて「刻限話」と「伺い話」に分かれると思います。この刻限話は、その時代を考慮して考える必要があり、また現代にも通用するお話がたくさんあります。そして「伺い話」になると、各個人の伺いですので、それを自分に置き換えて思案すると分かりやすいと思います。
旬刻限から約3年間教祖は内蔵へこもられたとも聞きます。そして仰られたのが「貧に落ち切れ」ですが、貧乏になれとは仰ってません。これは時代背景から思案すれば分かるのですが、当時は徳川幕府末期の士農工商・男尊女卑と言う身分差別のあった時代ですので、谷底を見つめると言う意味があると思います。
親神が何を望むかと考えますと、すべての人々が陽気暮らしを味わい、その陽気暮らしを世界に広める事だと思います。
この陽気暮らしとは、ただ単に信仰の目的ではありません。信仰をしなくても陽気暮らしをしていれば、おのずと心は澄み切っていくものだと思います。またその姿を見て親神が共に喜びを感じて頂ければ良いと思います。人間は元々綺麗な身体なのですが、埃を積みます。その埃の心さえはたけばよいのです。
その一つの方法として、扉を開かれたのです。この扉を開くと言うのは、話では説明できませんが、ろっくの地にならそうかとも仰ってます。すべての人が同じに平らになるのがろっくではありません。
人間だけがそれを勘違いして着実にこなしてないような気がするのですが。欲に溺れ・格差を作っています。すべての生き物にも個性は有ります。チューリップでも赤いものがあれば白いものもあります。人間も白い人・黒い人・中間の人などが有りますが、そのすべての人も同じ人間なんです。これをちゃんと理解しなくてはいけないと思います。
そして自分をなくしてと有りますが、自分の埃をなくしてと考えた方が良いと思います。個性は大事ですから、自分をなくせば、ロボットと一緒ではないですか?なぜ人間だけに心を我が物にされたか?「かしもの・かりもの」を思案して見ては。
結論には程遠いと思いますが、何をするにしても対価を求めて行うことだけは避けたいです。それがひのきしんにもたんのうにもつながっていきます。
私の勝手な解釈で申し訳ございませんでした。
非常に平易に、順々と貴方の受け取り方を説いて頂き、ありがとうございます(*^_^*)
『貧に落ちきれ』という言葉ですが、私も、単純に貧乏になれと言うことではないと思案させて頂いております。
教祖ひながたでは、おやさまは門を取り払い、次々と家財を売り払って、本当に貧に落ちきられました。
こかんさまがお米もありませんと言うと、おやさまが『水を飲めば、水の味がする。枕元に・・・』というお話は周知の事でしょう。
そして、部落などに自ら、足を運ばれたとお聴きします。
これは、貧富の差、男女の差、身分の差などの大きかった時代に、その当時の世間で言う一番底辺に行く事で、その方々の立場や気持ちを理解し、しかし、心の持ち方でそこでも陽気ぐらしが可能な事、親神様のご守護を頂いて生かされている事を教え一緒に立ち上がることで、『上』のしていること『世の中』の過ちを変えていこうとされたのではないでしょうか。。。
『ひながたを通らなければ、ひながた要らん』というお言葉があります。
今の世の中でもっとも荒んだところに身を置いて、一緒に解決していける事かなと思います。
最近は貧富の差が出てきて、年収200万円台の家族が増えてきているという事も、皆さんご周知の事と思います。
確かに大変で苦しい部分も正直あるかも知れません。しかし、それが元で『心』が荒むことが、一番苦しく、何かの手立てを必要としてくるのではないかなと思うのです。
戦後の日本人?は、世の中『お金』だと思っている方が、結構おられると思います。
世の中『お金』では、全く無いと言う事は、教会で育って来た私には、少しは分かる事です。その為に、親にしたら『してやりたくてもしてやれなかった』と思われる生活をさせて頂けた事を、本当に有り難く思っています。
そのお陰で、『物を大切にしなされや』というおやさまのお言葉が・・・特に食べ物に関しては、身に染み付いております。母には全く敵いませんが・・・(^_^;)
これは、現代の安易に自動販売機で『ガソリン』より高いジュースを自由に子供が買えるような日本では、なかなか、教えられない事柄だと思います。
話は逸れましたが・・・『現代』の問題、、、それは戦後走り抜けた六十数年の『成果主義』『生産性の重視』とにかく頑張って裕福になろう幸せになろう!!としたのは良かったのですが、いつしか、『今さえ良くば、我さえ良くば』の風潮に流され、大切な何か・・・を置き去りにしてきてしまった。
そんな背景も、しっかりと見詰め、『心の向きが変わる』事で『親神様の親心』が分かる事で、ころりと変わる人生がある事を、
もし、生き方に迷った方が居られたら、生きる道標を見失いどうして良いのかさえ分からなくなっている方が居られたら、一緒に考えて歩んで、『一夜の間にも心入れ替え』られる世界がある事を、お伝えしていけたらなと思っています。
『貧に落ちきらなければ分からない世界』は確かにあります。
しかし、『私』も『貴方』も、一人では無いので、みんなで力を合わせれば、色んな『貧』が分かる。
その為に、おやさまは『ひながた』を残して下さったのだと思います。
『ひながた』を単純に、そのまま、受け取る事も大切かも知れませんが、『ひながた』に残されたおやさまのお気持ちを分かる・・・分かりたい・・・という気持ちが、何かを『分からせて頂ける』ことにも繋がるのではないでしょうか。
正解はありません。
各自で思案して、練り合って談じあって、導き出された物・産まれだされた物・・・それをみつけながら進んでいく、プロセスにこそ、意味があるのかも知れません。
いつもわらわれそしられて めずらしたすけするほどに
と教えられてます。
このお言葉は、定めた心を親神の思召し通り通らせて頂くことだとだと思います。人間心を捨てきった、澄み切った心を表して頂いていると思案させて頂く次第です。
教祖は「山の仙人になるな、里の仙人になれ」と仰ってます。
これは、キリスト教や仏教では僧職者(出家)と平信者(在家)の生活規範が相当違っていることからの、区別と思われます。
教会で育った人・一般社会で育った人など様々です。が誰もこのように生まれたい、また親の立場としてこのような子供が欲しいと思っても、それはできません。
「いずれもつきくるならば むほんのねえをきらふ」このお歌は、先ほど申しました、悪因縁と思われますが、だれもかれもがこの道につき添ってくるならばとの前置きの後のお歌であるので、悪因縁は、切って頂けるものと思います。ただ教祖の御教え通りに、素直・正直に教えを身に付けたならば(つきくるならば)と教えておられますが。このつきとは胸をおさえますね。
そして徳については「よくのこヽろをうちわすれ とくとこヽろをさだめかけ」と仰ってます。
ここでは、神一条の教えを胸におさめて、誠の心をはじめかけるようにと言う事を仰ってると思います。(人をたすける心をしっかり定めなさいとも思わせます)
戦後の日本を考えてみますと、まずはお金では無いような気もします。震災を体験した方がまず求めるのは。身近な家族の安否・今の現状から始まります。そしてそれから、近所の人の安否などが先に現れます。そして弱者救済が始まります。その時は自分の考えは有りません。そして、全体(自分の周りしか分かりませんが)を見渡して、まず今日どうしようかと思います。避難所を求める人・家債道具をかたずける人それぞれですが、まずは人命を重視します。これは体験しないと分からないと思いますが、人間が極致に陥れば何が何でもまず、自分(自分がしっかりしてないと何もできません)そして近くにいる人(親族・家族に限りません)と順序だてて自然と体が動くようになってます。
心さいすきやかすんた事ならば どんな事でも楽しみばかり
とお諭下されています。
そして大事なお歌に
「こヽはこのよのごくらくや わしもはや/″\まゐりたい」に注目してみてください。他宗教では、あの世・天国・地獄・原罪などを諭してあるのに、わが宗教だけが、ここが極楽と教えて頂いてます。陽気暮らしを実現すれば、こんな素晴らしい所は他にはないのです。
目標は高く持つ・心は質素にそれを考えさせられます。
オリンピックでも出場選手はすべて金メダル・自己ベストを目指して日々丹念を重ねます。結果を恐れないのが生を頂いた者の使命ではないでしょうか。
理路整然とした文章ですね。綺麗です。
読みながら、いろいろと思いましたけど、全返信は時間がかかりすぎるので、この記事のやりとりを読んだ後の、感想を思い浮かぶままに書かせてもらいますね。
因縁には、善因縁と悪因縁がありまして、天理教の信仰者の多くが因縁という言葉を使うときは、悪因縁のことを言っています。だから、因縁というのがマイナスイメージを持たれていますが、このコメントでは、善因縁の話を書いてみたいと思います。
また、善因縁といえば、信仰者においては、天理教を通して、中山みき様と理の親子関係にあるというのが、それです。
この二つは、とても重要で、誰もが心しておくべきだと思います。
また、前世、今世がどんな通り方をしてきて、どんな悪因縁が発露しようとも、「たんのう」という心の技術があれば、全て納消出来るということだそうです。
また、教理もそうですし、理の話を理解するには、魂の徳が必要です。
人の話を読んでも、分からないと言う人は、魂の徳が足りないので、徳を積んだら分かりますよ、ということを経験談として書いておきます。
この記事にコメント下さった方は、ぜひ、ハンドルネームを固定して、田鶴ブログにまたコメントして下さったらいいなあと思います。
田鶴ブログも、色々な人が見ているそうなので、新しいつながりも楽しめそうですね~
しかしこの「たんのう」と言う言葉を聞いて辛抱とか忍従と似通った言葉として受けとられている節があります。「なんでも辛抱すること」が本当の「たんのう」なのでしょうか?
充分理解して真の「たんのう」の本質を再任すべきではないかと思います。
一般辞書による「堪能」とは
①十分みちること。あきたること。
②技術に長けること。
と有りますが教祖の仰ってくださった「たんのう」とはこのような意味で仰ったのではないと思います。
この内容を教理でお話しすることは、この場では難しいと思いますが、簡単に言えば「ひのきしんの中に見出せるもの」でもあると思います。
みんなで思案していくのが、本当の「たんのう」であり「ひのきしん」だと思います。
思案、練り愛、ありがとうございます😊
『たんのう』は我慢では無い。
と、はっきり、お伝えすべきですね!!
古くからの信者さんでも、『因縁』などと同様、履き違えておられる方がおられると思いますね。
親神様の教えは、親の教え。。。
基本的に私たち人間、つまり、こどもを困らせようとか痛めようとか、懲らしめようとか、そんな事は一切無いと知れば、思案の仕方が分かってくるかも知れませんね。
田鶴の初代はまさに『たんのう』出来る方でした。『よろこびの生活』に彼のよろこびに変える生き様が遺っています。
これは、彼の因縁や徳もあったのでしょうが、次から次に『節』を頂きながら、教え導きられながら、彼自身が求め思案し、親神様の想いに気が付いたから。
また、後で、、、
けっこう源さんて知ってますね。
たとえば毎日毎日雨が続いてみんなが困った困ったといいだしこの長雨が続けば・・・と言うと
長雨で結構じぁないですか!この雨が一度に降れば洪水になり田畑も山も海もむちゃくちゃになってしまう。長雨でよかったと思うようになるんじゃないですか
どう思います。心さえ良い状態でも「たんのう」までは・・・
どうかな?
直前の「たんのう」さんの文体だと、Fさんかなと思いました。
たんのうという心の状態に対して、どういう事象が起ころうとも結果は喜びが残るということじゃないかなと思いますよ。