人気ブログランキング |

「田鶴だより」「網干月報」「リーフレット」の印刷に・・・

昨日(2月28日)に、「田鶴だより」「網干月報」「リーフレット」の印刷に行ってきました。
2月は28日まで、いつもより二日早い印刷です。今月号は、仕上がるかなあと、心配しましたが、なんかとか編集ができ、網干大教会に行ってきました。
珍しく朝寝坊で、6時過ぎに目が覚め、神饌をして出かけました。
朝勤め前でしたが、7時前に出かけました。
途中、すき家の牛丼を食べて、出発。演歌を聞きながら、コーヒーを楽しみました。
遅かったので、やはり渋滞に合いました。
網干大教会に着くと、「別刷」が刷り上っていました。
ちょうど、道彰さんが来られ、月報の印刷にかかりました。
「網干月報」「別刷」845部を刷り上げ、折りこみをしました。結構速く出来上がり、昼までに仕上がりました。
昼から、「田鶴だより」「リーフレット」を印刷しました。

帰りは渋滞にも会わず、途中散髪をして、カインズホームで買い物をして帰りました。
帰ったら、「天理時報」が来ていました。時間があったので、手配りをしてきました。

今月の「リーフレット」の内容です。
良い種・悪い種

ナスの種をまけば、ナスが芽生えます。
ナスの種をまいて、トマトは収穫できません。
良い種をまけば、良い芽が出、
悪運の種をまけば、悪運の芽が出ます。

ところで私たちは、何か良い事をした時、
会う人ごとに、吹聴したくなります。
それは、まるで種を陽にさらすようなもので、
せっかくまいた良い種も、芽が出ません。
逆に、つい悪い事をしてしまった時、
人に知られないように、隠します。
それは、まるで種に土をかけるようなもので、
悪い種からは、悪い芽がどんどん育ちます。

私たちが、良い運命に恵まれるためには、
良い種こそ土をかけて、そっとしておき、
悪い種は、お詫びの言葉をそえて陽にさらし、
芽を枯らせてしまうのが、いいのですね。

by tazuru-kyokai | 2014-03-01 11:25 | Comments(17)

Commented by 神様の子は神様に at 2014-03-02 21:22 x
ナスの種をまけば、ナスが芽生えます。 と言うようにトマト生えないですね。
 神様の子供である人間も通っていく道は違えど、究極の道は神様の所へいくのが「お道」なのです。
 神様になると言っても身が変わるのではありません。
身体は神様からお貸し頂いたものです。だから身体はそのままで、心持ちが神様同様になれば良いのです。「心すみきれ神同体」と仰せられてもいます。
 心を澄まして誠の心になれば神様に近づいて行くのです。
 これは、自分一人がそうすればよいと言うものではありません。
世界中の人がみんなもう一段高い所へ行く道を「お道」と言います。
 教祖がお通りになった道がそうなんです。その後をついて行けば、連れて行ってくださいます。
「石のつづらの中へ入っても神が引き出しに行く」とも仰せられています。
Commented by oyasama at 2014-03-03 12:16
>神様の子供である人間も通っていく道は違えど、究極の道は神様の所へいくのが「お道」なのです。

>神様になると言っても身が変わるのではありません。
>身体は神様からお貸し頂いたものです。だから身体はそのままで、心持ちが神様同様になれば良いのです。

神に近づくと考えると、極端思考に陥ります。

おやさまの雛形を通れるように努力し、通るのがお道だと考えたほうがいいのでは。


>「心すみきれ神同体」と仰せられてもいます。
初耳です。出典はありますか?
Commented by 心すみきれ神同体 at 2014-03-06 05:50 x
「鼓雪」です!
Commented by 吉田 悟 at 2014-03-08 09:14 x
ナスの種をまいて「トマト」が出来たらどうするねん? 「鳶」が「鷹」の子をうんだら、どないするねん? 「おたまじゃくし」の子が「おたまじゃくし」だったらどないするねん?   オノレラの短い「物差し」で何を謳おうが勝手だけど、少なくともワシは面白くないんや(怒)   もう少し「ドジョウ」から騙されとけ
Commented by oyasama at 2014-03-09 23:18
心すみきれ神同体さん

増野鼓雪先生のことですか?
基本的に、神様、教祖の言葉と、信者の言葉は分けるべきだと思います。どんなに名のある先生であろうとも、まるで神様が仰ったような書き方をしてはいけませんよ。
Commented by oyasama at 2014-03-09 23:19
吉田 悟さん
何に対して怒ってるのか。
Commented by tazuru-kyokai at 2014-03-10 08:35
まぁまぁ、、、😅

鼓雪先生のお言葉だったんですねー。
なるほどー。

心が澄み切ると神に近づける?神同様になる?と言うの、聴いた事あります。
何にせよ、皆が自分に出来る事をコツコツと。また、心澄み切る事を目標に毎日ホコリを払いながら、陽気に暮らす!
事でしょう。

怒っているみたいだけど(笑)
短い物差しは同感。
どじょうから騙されとけはある意味尊敬。
Commented by tazuru-kyokai at 2014-03-10 15:55
☆み☆
私は別に教理の話でも何の話でも一緒にして構わないと思います。どんな考え方の方ともコメント書ける場所にしたいと思っておりますので。。。⤴️⤴️⤴️
Commented by イエス・キリスト at 2014-03-10 15:59 x
(マザーテレサの格言)

世界中の人が幸せになれる様に「おたすけ」や「おさづけ」をしたいのですが、どのようにしたらいいのですか?

するとマザーテレサは
「家族を大事にしなさい。それがあなたが出来る人助けです」と・・・




さとる
Commented by 見の内は神様からのかりもの at 2014-03-15 20:17 x
人間というものはおかしなもので、自分の好きな人から少々の無理を言われてもいやとは言わない。ところが、いやな人に言われると本当の事でも、うそだと言うものである。たとえば自分が病気になっておさとしをされる時「貴方は少し我が強すぎます」と言われると、それが気に入らぬ人であると、自分ではなるほどそうだなあとうなずいても、「どこが強い」と言って逆に出て行きたがる。そして「あんな奴に言われてたまるものか」と言うている。
「なるほどそうだった」と素直に受けてしまえばそれまでであるのに、ひねくれてくるから事が面倒になってしまう。たとえ一筋の糸でも、もつれさせたら幾筋にでもなって、糸口がどうしても判らぬことになってしまう。これと同じで判っておることを、みずから判らぬことにしてしまっているのである。
神様も『人間は四角が判っても三角が判らぬ』と仰ってます。
Commented by ☆み☆ at 2014-03-18 23:27 x
こういうこと、ありますよね~。
素直に受けると、こじれないのに。。。
受け取らないと、とんでもなく、悪循環に陥ってしまう。

神様からのメッセージもそうだと思います。
素直に乗っかれば、道は自ずと開けてくるのですが、、、
会長さんから、諭されても、素直になれずに、折角、神様がくれたメッセージを返してしまう。
そうすると、目には見えなくても、悪循環のスパイラルにハマってしまう。
抜け出すには、神様からのメッセージを素直に受け取って、勇んで歩むこと。。。
それが、心倒さず。。。
という事と同類かな??

こういう経験ないですか??
Commented by 嫌いと好き① at 2014-03-20 08:13 x
神は、「嫌いな人を好きになれ」とは言いません。

 ダライ・ラマ法王(14世)と小柴昌俊(東京大学名誉教授)の対談です。
小柴先生が、「ブッダが慈愛を2500年前に説き、キリストが2000年前に愛を説きながら、なぜ戦争は収まらないのか?」と言う質問をダライ・ラマ法王にされました。
加えて小柴先生は「宗教に問題がありませんか?」と尋ねました。
「一神教の信者は『自分は絶対に正しくて、向こうはただしくない』と言います。イエスかノーか、正しいか正しくないか、その中間がありません。そうした宗教観の相違が、戦争の主たる原因ではないでしょうか?仏教はそれらと少し違うように思います。ブッダのための大戦争というのは聞いたことがない。21世紀は仏教のような心の広い宗教の出番ではないでしょうか?」
*天理教の出番ですね『究極(だめ)の教えです』
Commented by 嫌いと好き② at 2014-03-20 08:15 x
その時、ダライ・ラマ法王は「いや、私はそうは思いません。キリストも立派だし、ムハマドも立派です。しかし、それを信じている人が教理を自分の集団の都合のいいように解釈しているところに、本当の問題があると思います」
そうなんです。天理教も最後の教えを自分の都合のいいように教理を悟っている人もたくさんいるのではないでしょうか?
悟りとは人に押し付ける物ではなく、個人の悟りなのです。だからすべての人の悟りも違うでしょうし、上下関係は有りません。
ただその正しい教理をどれだけ理解しているかだけだと思います。
 環境問題を引き合いに出す際、一神教よりも多神教や自然教の方がいいようにいわていますが、私はそう簡単なものではないと思います。宗教戦争とひと言で表現されますが、実際は政治・経済が密接に絡んでおり、さらに宗教が絡んでいるのが実情です。「あの戦争は宗派どうしの戦いだ」と、いとも簡単に説明されますが、そこには複雑な要素が絡んでいるので、一神教から多神教に移行させたくらいで解決するような簡単なものではないのです。
Commented by 嫌いと好き③ at 2014-03-20 08:17 x
一神教と多神教の違いは民族の生活環境の違いだけの問題です。一神教は昔の狩猟民族間で広まり、多神教自然教は農耕民族の間で広まりました。
狩猟民族は、獲物が無くなるとその土地から離れ他の土地に移ります。だから信じる物は一つ何かを求めます。多神教・自然教は、その土地に留まりますので、その土地の風土・習慣・(たとえば山とか海とかその場所を崇めます)
その間に正解不正解は無いと思います。
Commented by 嫌いと好き③ at 2014-03-20 08:18 x
広島平和国際会議でのダライ・ラマ法王と南アフリカ共和国のデズモンド・ツツ大主教、北アイルランドのベティ・ウイリアムズ氏の講演会でのツツ大主教は「クリスチャンのなかにも、良いクリスチャンと悪いクリスチャンがいる」と言ったのです。「キリスト教の信徒をしながら、その教えとはまったく反対のことをしているひとがいる」と言ってました。
ツツ大主教はまた、次のように述べました。つまり、神様は人間のことをご存じだから、嫌な奴まで好きになれと無理なことはおっしゃらない。嫌いなものは嫌いであり、それは理屈を超えている。しかし、キリスト教での愛とは好き嫌いの問題ではなく、人間の意識面での愛のことである。神様は「人を愛しなさい」とおっしゃるけれど、嫌いな人まで無理して好きになりなさいなどと無茶なことはおっしゃらない、と
それは、人それぞれの個性であり、感性であるのだからと、ツツ大主教はお話されました。教義そのものがいかに立派なものであれ、それを理解・運用するのはひとりの人間なのです。
Commented by 嫌いと好き④ at 2014-03-20 08:19 x
 一つの事を懸命に努力するのも素晴らしいですが、諭達第三号に「おたすけは周囲に心を配ることから始まる。」と述べられています。がおたすけだけではなく、すべてにおいて周囲・他宗教・政治・ほかにも共通するものがあると思います。

Commented by よしだ さとる at 2014-03-20 23:34 x
私もまだまだ本当に未熟者で、好き嫌いの判断じゃなく『得意苦手』の八方美人感覚で我さえ良くばの結果になってしまう次第です。

ありがとうございました。